中務茂平衛(なかつかさもへい)の軌跡 |
本名:中司(なかつかさ)亀吉。1845年(弘化2年)4月30日に、周防(すおう)国大島郡椋野(むくの)村 (現山口県久賀町椋野)の庄屋中司家の三男として生まれました。(一説には次男との説も) 22歳の時に家を出て、四国八十八箇所巡拝を始めたと言われています。 以来二度と故郷には戻らず、生涯巡拝の旅を続け、そして最後となる78歳の巡礼で、6か月余りかかってたどり着いた結願の大窪寺を目前にして病に倒れました。実に280度目の巡礼でした。 最後は、彼のよき支援者であり信奉者でもあった久保ちか子宅(現:香川県高松市通り町)で56年にわたる遍路生涯の幕を下ろし大往生を遂げました。時に大正11年(1922年) 3月20日午前1時であったと言われています。 彼の残した道標のひとつに刻まれた、『生まれきて 残れるものとて 石ばかり 我が身は消えし 昔なりけり』という句は、自らその生涯を詠み上げているかのように思えます。 彼の道標建立は、厄年の42歳のとき、巡拝が88回目になったのを記念して始め、以後多数の道標を建立し続け、100度目からは『義教』の法名を刻むようにもなりました。 その道標の特徴は、ほとんどが大型(道標高の平均約124cm)であり、刻字に彼の出身地である『周防国大島郡椋野村』と、建立の年月、巡拝度数、茂兵衛義教の氏名・法名を刻んでいることであります。 また、道標には珍しく句歌を刻み、『迷う身を教へて通す法の道』という句を好んで選んでいます。 彼が建立した250基以上にも及ぶ道標は、歩くしかなかった時代の遍路の文化遺産として、現在でも高く評価されています。 一方、四国八十八箇所巡拝の傍ら、富士山・大峰山・葛城山での入峰修行や、西国33観音霊場の巡拝なども精力的に行い、明治24年(1891年)には76番金倉寺の住職松田俊順 の弟子として度牒(どちょう)(出家僧の許可状)を受けています。 四国霊場を巡拝し続けた彼は、人々からは生き仏として慕われ、明治40年(1907年)に四国遍路の途中で偶然中務茂兵衛と出会ったある僧侶は、彼について『見るからに温和な風采の人 にて、至る處(ところ)に道しるべを建てつゝあるく人で、四國ではこの人を知らぬ人はない程の篤信者なり』と書き残しています。 歩きを中心とした遍路で、100回以上巡拝した遍路は何人かいますが、280回にもおよぶ四国遍路の巡礼は、彼のほかには二度と出てこない偉業であり、その残した功績は計り知れないものがあります。 |
道標 | 茂兵衛堂 | 遺品 その他 |
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中 務 茂 平 衛 年 譜 | |||
西暦 | 和暦 | 年齢 | 内 容 |
1845年 | 弘化2年 | 1歳 | 4月30日誕生。父:次郎右衛門 母:ヲフミの三男として生まれる。本名亀吉 |
1848年 | 嘉永1年 | 3歳 | 11月25日 次男:林蔵10歳で死去 |
1858年 | 安政5年 | 14歳 | 9月20日 父:次郎右衛門51歳で死去。戒名:中功院釈歓證道喜居士 |
1866年 | 慶応2年 | 22歳 | 出奔。3月より四国八十八ヶ所の巡拝を始める。 8月14日 母:ヲフミ死去。戒名:清妙院釈歓喜貞真大姉 |
1877年 | 明治10年 | 33歳 | 3月5日 金倉寺の松田俊順師に諸経真言を伝授する。 6月以降、伊予国大島巡拝。 |
1878年 | 明治11年 | 34歳 | 7月16日より、富士山・大峰山・葛城山等入峰修行。 |
1882年 | 明治15年 | 38歳 | 4月3日より9月15日まで、西国三十三ヶ所3度巡拝。 2月18日付けの経本の接待を受ける(清水寺にて)。 5月。亀吉37年2ヶ月、高野山にて弘法大師御像を求める。四国巡拝64遍目 |
1883年 | 明治16年 | 39歳 | 1月 『四国霊場略縁起・道中記大成』出版。 |
1886年 | 明治19年 | 42歳 | 四国巡礼八十八度目為供養として、道標を建立。 |
1888年 | 明治21年 | 44歳 | 四国巡礼100度目を記念し、道標を建立。 |
1890年 | 明治23年 | 46歳 | 2月、111度目の時納経帳を新調。釈俊因に宝印簿小言をいただく。 |
1891年 | 明治24年 | 47歳 | 9月25日 四国巡拝121度目に達する。 10月20日 度牒を受く(聖護院より)。 10月26日 持念祈祷免許。 |
1895年 | 明治28年 | 51歳 | 11月20日 勅会灌頂之開壇○次テ開眼供養、大本山実相院門跡 印 |
1898年 | 明治31年 | 54歳 | 2月 四国巡拝160度目に達する。 |
1903年 | 明治36年 | 59歳 | 9月 四国巡拝196度目。 |
1909年 | 明治42年 | 65歳 | 諸日誌。正月元長一月二十三日ニアタル事。65歳目出度申納候。 正月元日代 坂井ウタ方。同人方へ三日まで滞在ス、、、 |
1910年 | 明治43年 | 66歳 | 10月 中司ムメ宛書簡 道後木下や村井マキチ方にて会う約束。 |
1912年 | 明治45年 | 68歳 | 3月 四国巡拝242度目。 |
1913年 | 大正2年 | 69歳 | 2月 愛媛県越智郡亀岡村役場より道知石建設についての手紙と地図。 6月 八幡浜警察署より石工の始末書。 |
1915年 | 大正4年 | 71歳 | 5月 四国巡拝259度目。88番大窪寺にて修行大師の軸を買う。 |
1918年 | 大正7年 | 74歳 | 2月までに四国巡拝268度目 延べ51ケ年。 |
1919年 | 大正8年 | 75歳 | 諸日記。元日元長、土佐国安芸郡津呂村第二十四番東寺ニテ奉祝候事。 |
1920年 | 大正9年 | 76歳 | 元日元長、高知市江の口町四国第三十番安楽寺ニテ奉祝七十六歳候事。 11月 香川県東かがわ市に、四国巡拝279度目の道標。 |
1921年 | 大正10年 | 77歳 | 元日元長、出釈迦寺江滞在中祝。前後二ヶ月半滞在。 6月 香川県東かがわ市に、279度目の巡拝記念道標を2基建立。 この道標が最後の道標となる。 |
1922年 | 大正11年 | 78歳 | 元日元長、当七十八才目出度奉祝。中司亀吉。(奥の院仙龍寺滞在中) 正月二日目出度。 2月14日より、久保ちか子方(高松市)滞在。同23日大往生(旧暦)。 |